三鈷寺のこと
三鈷寺の歴史
当山は山号を西山と称え、寺号を三鈷寺と申します。
関西随一の眺望を誇る当山は洛西西山の中腹に位置し、
比叡山を始めとする東山三十六峰、北山、京都市街、宇治、木津方面まで一望出来ます。
江戸時代に書かれた「都名図絵」に「二大仏七城俯瞰の地」と記され、
歴史と伝統を持つ霊山にございます。
平安時代の承保元年(1074年)に源算上人が草庵をむすんで北尾往生院と号したのが始まりです。
二祖観性法橋、三祖慈鎮和尚(慈円)と入寺され、
次いで建保元年(1213年)法然上人門下の門下の證空善慧国師、
即ち西山上人が伝燈されここを不断如法念仏道場とされるとともに名も三鈷寺と改めました。
これは背後の山容が仏器の三鈷に似てるからと言われております。
三鈷(さんこ)とは
密教における法具で、三鈷杵(さんこしょう)ともいう。
仏の教えが煩悩を滅ぼして、悟りを求める心を表す様を
インド神話上の武器に例えて法具としたものである。
歴史・百人一首ゆかりの地
三鈷寺の三祖 慈円こそは、後に藤原定家によって小倉百人一首に選句された
前大僧正慈円であり、下記の歌を詠んでおります。
おほけなく うき世の民に おほう哉 わかたつ袖に 墨染の袖
訳:身のほど知らずではあるが、悲しみに満ちた世の中の平穏を願い、この墨染の袖を被いかけよう。
日々、三鈷寺から京の景色を見渡し、この和歌に想いを巡らせたことでしょう。
宝治元年(1247年)11月26日、西山上人入滅となり、
上人に深く帰依された蓮生(宇都宮頼綱)が塔を建て観念三昧院華台廟と称し、
歴代法燈され今日におよんでいます。
また蓮生も藤原定家とともに百人一首の成立に深く関わった人物で、
華台廟に西山上人と共に祀られています。
三鈷寺本堂・華台廟
中世は浄土宗西山派の根本道場としてい多くの寺領を有しましたが、
応仁の乱(1,467年)にて堂宇が荒廃し、
その後常念仏・再興の綸旨を授り、新に寺領を賜るも旧寺の如くには至りませんでした。
今日迄幾多の変遷を経ましたが、昭和26年(1951年)五十二世台龍上人の徳望により
四宗兼学(天台・真言・律・浄土)の本山として独立し、
平成大修理が平成14年春に完了し現在に至ります。